興国寺城を復元する会
興国寺城の情報発信基地の構築
平成25年当時より調べ始めた各城主、近隣の寺院等もレポートに纏められており、興国寺城研究、歴史研究の拠点、情 報発信基地、ガイドの拠点作りを模索していましたが、令和5年8月 興国寺城の地元である根古屋の有志が「興国寺城址研究会」を設立しました。当会も参画し以後の活動は「興国寺城址研究会」を通じて行います。
纏められたレポートは令和6年3月を目途に書籍化して配布する予定です。
興国寺城の土塁模型
現在、興国寺城址研究会と共同で興国寺城の土塁模型を作成しております、完成いたしましたなら建物群を作製してまいります。これから順次ホームページに掲載してまいります。
戦国時代は興国寺城より始まった
興国寺城のガイド引き受けます
原・浮島ボランティアガイドの一員として興国寺城のガイド引き受けます
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興国寺城
根古屋の地名が表わす如く、古くから館なり、城が設けられていた、歴史に登場するのは、駿河守護今川家の内訌を収めた功によりこの地を拝領した北条早雲が城を構えたことによります。箱根を挟み関東との境目の城であったこの地域はその後領主が目まぐるしく変わります、伊豆を攻め取った早雲は韮山(静岡県伊豆の国市)に移ります。河東の乱の後、天文18年(1549年)今川義元は、この地にあった興国寺を西隣の井出に移し、改めて城を構えます。
義元が桶狭間で討ち死にし、息子の氏真の時代になりますと武田信玄は駿河に侵攻します、氏真は駿河を北条氏に譲り、この地は再び北条家のものとなり、垪和氏続が城主となります。甲相同盟が復活しますと、武田氏の領地となり保坂、向井、曽根昌清等武田の名の知れた武将が城主となりました。 天正10年(1582年)織田信長の甲斐侵攻により、武田家が滅ぶと徳川家康の領地となり、牧野康成が城主となりますが、直ぐに柾戸の砦(沼津市大平)に移り代って竹谷松平清宗が城主となりました。
小田原の陣により北条家が滅び家康は関東に移封となりますと、豊臣秀吉の武将中村一氏の領地となり、城代として河毛重次がこの地に参ります。現存する遺構はこの時のものと考えます。 慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に勝利した家康は、駿河中村家を伯耆(鳥取県)に移し、幼少期より付き従った天野康景を封じます。
慶長12年(1607年)城修築用の竹材を盗みに来た天領の百姓を負傷させた足軽を守る為、この城を棄てて逐電します、これにより廃城となりました。
北条早雲により戦国の幕が開け、関ヶ原の戦により一応の、終止符が打たれました、その時代を駆け抜けたのが興国寺城で,中世の土塁の城が凝縮された城です。
興国寺城の城主たち
北条早雲
在城期間長享元年(1,487年)~明応2年(1,493年)文明8年(1476年)駿河守護職今川義忠が塩買坂で討ち死にしてより今川家は義忠の子龍王丸と、いとこ叔父である小鹿範満との間で家督をめぐる争いが起こります。
長享元年、早雲は家督を返上しない小鹿範満を討ち取りその功により、この地を拝領します。
鎌倉に入れないで堀越(静岡県伊豆の国市)にいた足利政知は後妻との間に生まれた清晃を将軍に就けるべく京へ送り将軍義政の猶子とします。
延享3年 政知が亡くなり堀越公方は側室の子茶々丸が跡を継ぎ、後妻と清晃の弟は自害します。明応2年(1493年)幕府管領細川政元は日野富子と謀り将軍足利義材を廃し、政知の子清晃(義澄)を将軍に就けます。将軍となった清晃は母と弟(潤童子)が茶々丸、に殺されたと聞き,駿河今川家に茶々丸討滅を指示します。早雲はその先鋒となり、この地より船で口野(静岡県沼津市)迄行き、下田街道を南下する葛山氏と協力して堀越御所を攻めます。
北条早雲が堀越御所を攻める為に興国寺城を出発した時から戦国時代が始まったのです。
それから5年、伊豆一国を兵糧攻めにして、明応7年下田の深根城に関戸播磨守と茶々丸を攻め滅ぼし伊豆を領国といたします。
かっては乱世の梟雄といわれましたが、虎の朱印「録寿応穏」が示すが如く智仁勇義を兼ね備えた当世随一の人物であります。
天野康景
在城期間慶長6年(1601年)~慶長12年(1607年)
徳川家康に幼少期より仕えた武将で、先祖は源平の時代源頼朝の旗揚げに参加した伊豆天野(静岡県伊豆の国市)の遠景。
家康より5歳年長で、家康が駿府に人質になった時より従う、今川義元が桶狭間に於いて討ち死にした後、家康は岡崎に帰 り信長と織徳同盟を結び三河一向一揆を鎮圧する、康景は本多作左、高力清長と共に岡崎奉行になり「どちへんなしの天野三郎兵衛」と呼ばれる。
家康は義元の子氏真の時遠江に侵攻し、康景は浜松城に石川数正と共に先鋒となり入城する。
家康の戦には悉く出陣しているが、奉行であり家康の本陣にいるため酒井や、本多のように華々しい戦歴は無いが徳川実記によれば三河一向一揆の際は馬場小平太を打ち倒し、三方が原の時は兜首を取ると記されております。
特に豊臣秀吉との小牧長久手の戦に於いて、山鹿素行は池田勝入の母衣武者を討ち取りし者を最も高名としておりますが、その中の一人です。興国寺城の城主となってからは、飛び地である本宿の地に用水を引きます、「本宿用水)と呼ばれ、黄瀬川より隧道にて500m、堀350mで本宿村に水を引きました。50年後の「箱根用水」の原型とも言われます。
慶長12年(1607年)城修築用の竹材を盗みに来た天領の百姓を足軽が負傷させた為、代官の 井出志摩守と紛争が起こり、”康景が命じて番させし者を、盗人のために下手人として出さしむ事思いもよらず”と断り、3月9日嵐の晩に息子康宗と共に出奔 、興国寺藩は改易となりました。
この話は江戸期より語られ白石の”藩翰譜”湯浅常山の”常山紀談”にも載せられ、明治の時代になって子供の道徳の規範書”幼学綱要”にも載せられております。